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岡村孝子さんの事を囁いています(^。^)y-.。o○
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 DATE: 06/27/2008 09:51:11 PM ----- BODY:

 

  先般のこの記事に関し、今井さんのご指摘に基づき調べました結果、

記事に間違いがありました。

  恵美子さん、孝子さんごめんなさい。

今井さん、ありがとうございます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%81%B5%E7%BE%8E%E5%AD%90

 この放送のテープは 1982年の夏 7月から8月にかけてのものとわかりました。

恵美子さんのポエム、恵美子さんの新曲『幸せの朝』の紹介箇所もありました。

だから『待つわ』はもちろん82年ですね。

そして、このあとひと月ほどして恵美子さんから、番組終了のお知らせがあったのです。

いまだに、そのテープが見つかりません。

そのほうが良いのかもしれません。

いつまでも恵美子さんは、心に生きている青春のマドンナだから、、。

 


 

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DATE: 10/17/2008 12:12:43 AM ----- BODY:

   その昔、まだ孝子さんに出逢う前の1980年前半。

中山恵美子、谷山浩子のふたりのアイドルに夢中になっている頃に、

浩子さんと同じラジオ関西で、パーソナリティーを務めていた。

当時は浩子さんの隔週のひとりとしてしか見ていなかったけれど、

その三重子さんの作品の虜になった時期もあった。

『池上線』はもちろん『千登勢橋』は今でも時々聴いている。

孝子さんのファンになってしばらくして、

東京ベイNKホールで孝子さんのコンサートまでの時間の合間に、

千登勢橋、目白、池上線を訪れた。

まだ孝子さんの聖地など知らない時代の事、

三重子さんの聖地巡りは今でもくっきりと覚えている。

時が過ぎるとともに、よけい美しく残っているのかもしれない。

http://www.aoistudio.co.jp/SP/nishijima/

 


 


DATE: 11/23/2008 09:10:19 PM


Pb230395 
  いつ頃から、壁に掛かっているのだろうか。

NHKテレビ銀河ドラマ『 白鳥の歌なんか聞えない』(1972年) でデビュー。

この当時の男性たちは彼女を可憐、清楚、良家の子女と誉めたたえ、

男性のお嫁さんにしたい女性ナンバーワンをしばらく続けていた。

 このドラマも途中から観たような、、、なんで初回から観なかったんだろうと少し後悔した記憶がある。

当時はビデオも無く、このドラマに再会できないけれどそのほうが良いのかも知れない。

 このポスターは全紙の大きさがあり、写真用のべニアパネルに張り付けていた。

辛い時も憂しい時も嬉しい時もすべてを温かく見守ってくていた。

キッコーマンから手に入れた物のようだけれど、どういうかたちで手元に届いたのか記憶にない。

今まで大切にしていたけれど、もうこのパネルを処分することにした。

数週間前、夜中に吊っていた紐が切れ、天井から落ちてきたのである。

何の前触れもなく、、、(^^ゞ  だれかの祟りなのか(^^ゞ

 しばらくは吊り直すべきか、処分するべきか迷った。

彼女が結婚した79年に、処分しておくべきだった。

浩子さんに出逢った頃がベストであるけれど、拠り所全てを入れ替えるには時間を要していた。

しかしもう既に心に無い。

有るのはただ処分するには、忍びない気持ちだけ。

72年の出逢いからすぐに、手にしたこのポスター。

せめてパソコンの記憶にだけでも残しておこうか(^^ゞ

  参考資料
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E6%98%8E%E5%AD%90


 



 DATE: 12/01/2008 02:15:41 PM ----- BODY:

 

     けっして美人とは言えない。

しかし『真赤なほっぺた』と『やや鼻にかかった話し方や唄い方』

『少女少女した世界観』に当時の僕は、引き寄せらていた。

もう何年前なんだろうか。

熱が覚めて10年以上も経っているから、、、、。

 当時唯一の情報源のラジオ放送から流れてきた『忘れられた部屋で』だった。

その曲調と歌詞がドラマ仕立てになっていて、心に沁み入るのでした。

発売が1978年秋。

またしても1978年。

ギャルギャル神戸で耳にしたものか、全く別番組なのかはわからない。

過去のレコードも買い漁った。

シングル『おはようございますの帽子屋さん』『河のほとりに』『窓』。

LP『静かでいいな』『猫の森には帰れない』『もうひとりのアリス』

『鏡の中のあなたへ』とこのあたりまでは、

『浩子さん、浩子さん』と夢中になり、追っかけていた。

しかしLPの中の数曲は『浩子さんの世界』を理解できないものが、

これ以降少しづつ増え、『水の中のライオン』に至っては半分、

1993年発売の『天空歌集』などは全く理解できずにいた。

そしてファンクラブから来る冊子も全く目を通さない事が、

10年近く続いたのだろうか。

退会する数年前は、コンサートも数年おきにしか参加しなくなっていた。

初期には、『パソコン通信』での集いで、

浩子さんのオフ会に東京まで出かけたり、

96年には西は島根県西部の柿木村まで遠征した。

そんな熱意も、全てと言っていいほど『岡村孝子』との遭遇により、

『過去の人』になってしまった。

『感性の違い』『番組の終了』などの原因は多々考えらるけれど、

シアワセ ユキの『心を満たす』存在ではなくなっていった事は確かである。

最近過去の番組のテープや曲を聴いても、

懐かしいと思うだけでそれ以上の感動や安らぎなどはない。

少しづついだいていた『違和感』を感じつつも浩子さんのファンでいたのは、

少しばかりの未練だったのかも知れない。

 これを記すにあたって、浩子さんのオフィシャルやファンサイトを見ても、

もう過去のような感動はない。

 

 それにしても、『1978年』って、シアワセ ユキにとって色んな事があったようだ。

今一度、『自分史』として調べてみようか。

 


 


DATE: 06/25/2008 08:55:40 PM

 


  過去の放送を録音してたカセットテープ『恵美子の長いつきあい』の某日。

リスナーのリクエスト『Amingの待つわ』と美恵子さんが紹介して、演奏が始まるとすぐ切ってしまっている。

時は1980年か、1981年。

まだまだ『孝子さん』に出会うまでの心の準備の出来ていない頃。

社会生活も、『恵美子さん』『浩子さん』という心の友にも恵まれていた頃。

この頃は、あらゆる事に『飛び回っていた』し充実していたと思う。

 そんな時代に『Amingの待つわ』と紹介されても、

数多くいる歌手のひとりの歌としか捉えていなかった。

心が『満腹状態』であったので、たぶんこの時に『愛がほしい』が架かっていても、

何の衝撃もなかったのかも知れない。

  今となっては、なんとも不思議な巡りあわせのテープである。



DATE: 06/25/2008 10:10:05 PM

こんばんは、今井です。

「恵美子の長いつきあい」で「待つわ」がリクエストされたんですね。

ん?ちょっとまってください、

たしか「待つわ」は1982年の7月にシングルリリースでしたよね……

ま、そんな細かいことはともかく、今回の話題にのぼったテープには、

ユキさんがおっしゃるように“不思議な巡り合わせ”を感じますね。

「恵美子の長いつきあい」の番組内では、恵美子さんの曲の他にも

(おそらく)当時のヒットナンバーがリクエストされる事が時々あったのではないかと思います。

それでも、いくら「待つわ」がヒットしていたといっても、

番組でリクエストがかかったのは1回しかなかったことでしょう。

偶然にもユキさんが「待つわ」がリクエストされた日に録音されていたか、

もしくは1982年当時の「恵美子の長いつきあい」を、

毎回欠かさず録音されていたか、どちらかだと思いますが、どうでしょう?

恵美子さんや浩子さんに孝子さん同様、一生懸命になっておられたのでしょうね。

はたまた、後の“未知標”として、神様が与えた偶然のいたずらか……

時の流れと運命を感じるといったら大げさでしょうか?

いぜん書き込みしたように、あみん解散後1983年頃は、

私も浩子さんを聴いていましたが、孝子さんの時ほどのめり込むことがありませんでした。

浩子さんの少し少女的で、でもちょっとグリム童話のような“怖さ、

人間の性(さが)”を持つ世界観は、とても魅力的でした。

しかし、当時私はまだ小学校を出たばかりの中坊。

そんな世界を理解するにはちょっと幼かったのかもしれません。

「じゃあ、何で岡村孝子は理解できたの?」

という疑問が湧きますが、巡りあわせというか、“心が求めた”というか……

うまく説明できずにいます。

ただ、同郷っていうだけではない、

やはり、曲そのもに心惹かれる何かがあったのだろうと思っています。

おそらく、ユキさんと孝子さんの「愛がほしい」も

そんな巡りあわせによって出会えたのではないでしょうか?




DATE: 06/26/2008 09:05:19 PM

 さすが、今井さんですね。

というより『待つわ』のリリースも知らないなんて、孝子さんにぶたれますね。

 本編の年代は、間違っていますね、テープは年代を書いていなくて、番組の内容から推測しています。

ポートピアとか、番組の公開録音の曜日などとか、、。

 色んな人との出会いは、本当に大切ですね。

ひょんな出会いも、あとにってはこんなに続くのかというものあるし、

それだけに大切にしなくてはいけないですね。

 僕の場合、浮き沈みが多く、沈んだ時期の出会いって長続きしていますね。

やはり心病んでいるって、心素直になれるのですね。

 浩子さんの事は、改めて記します。

孝子さんに出会って、、、というか、その前の『ギャルギャル神戸』が終了し、

東京でオールナイトニッポンでブレイクした浩子さん。

そして、少女少女してた浩子さんが好きだったのに、

その世界が自分が考えていた浩子さんの作品の一部で、

オドロオドロした世界が、理解できなくなっていったのです。

孝子さんに出会ってからもしばらくは『追っかけ』をしていました。

しかし、アルバムが出ても買う枚数は急激に減り、

コンサートも近距離のみの参加になりました。

 そして、自分の気持ちにうそをつくのは嫌で、ファンクラブも退会しました。


  いろいろ取りとめなく記してきました。

その時その時の心のありようで、出会いはやって来る。

孝子さん風に記せば『心の隙間のパズルがハマった』のでしょうか。

 そして“出逢いは いつでもきめいて 

知らない私を連れてくる”のではないのでしょうか。



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